2022.1127
まとめ
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ATD Handbookが8年ぶりに出版されました。今回がATDに名称変更して最初のHandbookですが、コロナ以降バーチャルトレーニング(オンライン研修)が急速に普及したこともあり、2008年版、2014年版と比べて「人材開発の基本」とされる内容に大きな変化が感じられます。
まず、2014年版から2022年版の間でATDに関連した大きなイベントをみておきましょう。
ひとつ目のATDへの変更ですが、名称から“American”が消えて北京にもATD拠点を置き、中国語でATDのWebサイトが閲覧可能になりました。また、タレントデベロップメント(以下TD)の意味ですが、2022年版Handbookの用語集では次のように説明しています。
タレントデベロップメント(TD)とは、組織の学習と従業員の能力開発を促進し、組織のパフォーマンス、生産性、成果を高める取り組みのことである。 |
これではT&D (Training and Development) とあまり変わらないと思いますが、カンファレンスでは「採用とオンボーディングとリテンションがセットになったセッション」などがあり、少し広がりが見られます。ATDはあえて厳密な用語定義を避け、新しいコンセプトが次々に生まれやすい環境にしている気がします。
尚、以下の図表1~11は原書にはなく、筆者が独自に作成したものです。Handbookの各章の解説図が限られているため、執筆者の著書やATDの関連資料に戻って作成したものもありますので、ご了承ください。
それでは、TDが具体的に何をするのかみていきましょう。図表1は「TDの役割の変化」をまとめたものです(2019年版ATD Competency Study参照)。
図表1のように、従業員の「実務遂行力を向上」して、組織の生産性や成果を改善するという基本的な役割は変わりません。最近では「自社戦略との連動、学習環境の最適化、学習テクノロジーの活用など」、言わば「テックのわかるBP」的な役割が期待されるようになっています。
ふたつ目のATD 2019ケイパビリティですが、内外の環境の変化に合わせて人材開発担当に求められる知識や能力を再定義しています。具体的には、「個人能力、専門能力、組織への貢献能力」の3領域、23ケイパビリティに整理されました。2004年版、2013年版のコンピテンシーと比べると大幅な改定です。詳細を知りたい方は下記サイトや文献をご覧ください。
三つ目のコロナの影響ですが、図表2の「研修実施方法の変化」を見るのが早いと思います(ATD State of the Industry, 2021参照)。コロナの影響で2020年には対面クラスの実施率が大幅に低下し、バーチャルでの実施が最多になりました。
以上のような背景があって2022年版のHandbookが出版されました。図表3は2008年版、2014年版、2022年版の基本メッセージを思い切って一言で表して比較したものです。とはいえ、2022年版はすべて目を通しましたが、他2冊は関連する章しか読んでいないので、ざっくりとした印象に基づいています。
2008年版は1990年代後半から続いていた「人材開発の目的はパフォーマンス改善」が大きなメッセージでした。2014年版ではスマホが普及し、「モバイル、ソーシャル、バーチャル」といったテクノロジーに振れた印象です。2022年版ではトレーニング&デベロップメント(T&D)からタレントデベロップメント(TD)に「スコープが拡大」し、コロナの影響でバーチャル(オンライン研修)の実施率が高まり、「『基本』とする内容が変化した」というのがメッセージだと思います。
図表4は、この3つのHandbookのセクション構成を比較したものです。
2008年版、2014年版では研修の設計開発プロセスモデルのADDIE(分析-設計-開発-研修実施-効果測定)に則った構成が一目でわかる(薄緑網掛け)と思います。一方、2022年版はこのADDIEから解放された構成にしたいという意図がよくわかるセクションタイトルになっています。
2022年版は全部で57章ありますが、多くの章の執筆者がコロナの影響にふれており、「バーチャルトレーニング(オンライン研修)の急増」は世界の人材開発関係者の共通体験ということがよくわかります。
「933ページのハンドブックなんて大変だ」とお感じかもしれませんが、2022年版は忙しい時代に合わせて各章とも10ページ前後と短くなり、とても読みやすくなっています。
それではもう少し内容をみていきましょう。2022年版のセクション3、“Training and Development Basics”は、タイトルどおり「人材開発の基本的内容」を解説しています。その構成を意訳して整理すると、図表5のようになります。このセクション3はADDIEに沿った雰囲気があります。
独断と偏見で結論を先に言えば、「人材開発の『基本』の変化」は、次の4点です。
図表6は、「13章 タレントデベロップメントの専門家のためのデザイン思考」にある「ラーニングジャーニーの4ステージ」を簡略化したものです。
この図を見ると、人材開発部門が提供するものが「単品の対面クラスやeラーニング」だけでなく、学習前後の上司との話し合いや受講者同士の職場実践のふりかえりなどを含め、「複数の学習経験(LX)をストーリー化すること」に変わってきていることがわかります。
このHandbook 13章の内容を詳しく知りたい方は、下記の本をお勧めします(Sharon Boller & Laura Fletcher, Design Thinking for Training and Development, 2020)。
また、図表6では人材開発部門の仕事は「知識・スキルの習得」の研修実施で終わらず、「記憶とコンピテンシー強化」「維持」と学習したことを職場で活用する研修転移までしっかり取り組むことがモデル化されています。つまり、このモデルには「研修転移=職場での実践」が基本スコープの中に含められているのです。
言い換えれば、実務行動を改善してから効果測定することが前提であり、「人材開発のスコープが拡大した」と言えるでしょう。
ここで注意したいのは、研修転移と言っても旧来のコンテンツの復習を迫る「プッシュ型」ではなく、職場での試行錯誤的な実践の内省を促す「プル型」の思想が入っているということです。
人材開発部門で設計・開発する対象は、図表7のように組織が用意する制度化された(Formal)研修・学習だけでなく、学習プラットフォームを活用した職場での他者からの学びやレコメンド(Social)、自分で調べて学ぶ自己啓発リソース(Immediate)の整備まで広がっています(15章 学習の個別化、正確化、即時化が必要)。
その結果、図表7の3つのタッチポイントのように「従業員の学び全体を構造的に俯瞰して設計開発すること」が求められていると思います。
このHandbook 15章では執筆者が提唱するOK-LCD(学習クラスタ設計法)のエッセンスを述べていますが、詳細を解説した次の本を読むことをぜひお勧めします。実践的でイラストが多く、P184と薄いのですが、中身がとても濃い本です(Crystal Kadakia & Lisa M. D. Owens, Designing for Modern Learning, ATD, 2020)。
研修の設計開発プロセスモデルは、図表8のように従来のADDIEをベースに、ペルソナや共感マップ、学びのタッチポイントなど、マーケティングの考え方を取り入れたモデルが基本となってきました(Crystal Kadakia & Lisa M. D. Owens, Designing for Modern Learning, ATD, 2020)。
また、図表9のようにADDIEとデザイン思考と融合させたモデルも出ています(Sharon Boller & Laura Flethcer, Design Thinking for Training and Development, ATD, 2020)。
以上、セクション3の象徴的な部分だけを切り取ってみてきましたが、「人材開発の『基本』はADDIEのプロセスで高品質の研修やeラーニングをつくる」というイメージがかなり変わってきたことがわかると思います。
ATD Handbook 2022には今後の人材開発を予兆する事例や解説がいくつもありますが、ここでは2章だけ取りあげます。
まず、チャットボットを使った研修転移の事例です(24章 学習転移:ミッシングリンク)。これは2019年のATDカンファレンスで事例発表された内容がもとになっています。
ポイントは、図表10にあるように、研修中に設定したアクションプランについてチャットボットが月1回、3か月にわたりチャットベースでフォローするというものです。この事例では受講者とボットのチャットが1回あたり平均20分程度続いたということです。
チャットボットと言えば、問い合わせに対してイラっとする回答が出てくるQ&Aを思い浮かべますが、この事例はボットから受講者に「プル型」の思想で問いかけるアプローチです。
執筆者のEmma Weberは「上司や関係者ではなく、チャットボットなので心理的安全性が高まる。ボットからのチャットで受講者の自己対話が始まり、内省が促される」と意味深な指摘をしています。これが一般化すれば、人手をかけずにレベル3の「職場での実践」が加速する気がします。
ふたつ目の予兆を感じさせる解説は人材開発部門の運営にかかわる内容です(48章タレントデベロップメントの事業に対する貢献を明らかにする)。
図表11にあるように、ラインが事業計画を策定するときに人材開発部門が年間の人材開発プランを相談し、「戦略に直結する学習」と「戦略に直結しない学習」に分け、それぞれの学習コースに対応する適切な指標・目標値・報告形式を提案します。
そして、事業部の幹部と合意を得たら、月次の決算や営業報告のように、幹部宛てに決めたフォーマットで研修指標の進捗を月次報告するのです。
1990年代までの研修効果測定の議論は、研修単品の効果を問うものが中心でしたが、執筆者のVanceは「人材開発も経理のP/LやB/Sのように、世界共通の指標と進捗管理ツールを持つべき」という考えのもと、こうした仕組みを提案しています。
最近、人的資本経営が取りざたされていますが、研修単品の効果の議論を超えて、こうした事業戦略とリンクした研修指標の進捗が毎月ダッシュボードなどでトップに月次報告される。そんな日が近づいているのかもしれません。
最後に、ビジネスと人材開発の連動の深まりについて少しふれておきます。
実は、図表8、9の最初のプロセスでは事業戦略との連動を確実にするためのツールがあり、「戦略と学習を必ず連動させる」ことが組み込まれています。つまり、ビジネスと人材開発の連動は当然のステップになっているわけです。
2022年版のHandbookでは人材開発BPの実践事例をあまり取り上げていませんが、従業員150万人を抱えるWalmartのCLOの取り組みはアグレッシブです(52章 L&Dはどうやって経営のパートナリングをするのか)。CLOが「経営の二歩先を見て学習部門の戦略をつくる」という気概が行間にみなぎっています。ぜひご一読されることをお勧めします。
また、ATD Award受賞企業のCLOの先端的な実践事例に関心のある方には、以下の2冊をお勧めします。とても刺激的な実践例がたくさん詰まっています。
ここまでATD Handbook 2022と関連するATDの書籍の一部をみてきましたが、ATDも日々変化する経営戦略やマーケティング手法の影響を受けていますので、ATDの文献だけ見ていても周回遅れになります。
むしろ、人材開発関係者自ら「今後の経営はどうなるのか」、大きな方向感を持つことが現在は必要になっている気がします。たとえば、「今後AIの活用が進むと世の中はどう変わるのか」、「企業での働き方はどうなるのか」、「AIを活用した学びはどうなるのか」、といった問いに答えられるようにしておくということが重要だと思います。
AIを活用する未来の姿について、さまざまな書籍が出版されていますが、たとえば次のような本が役に立つかもしれません。
以上、ATD Handbook 2022のセクション3を中心に概要をざっと見てきましたが、いかがだったでしょうか?「コロナ後の人材開発の基本」が変化しているとお感じになったでしょうか?
この本は従来の人材開発のターニングポイントと思える情報がたくさん詰まっています。ATD Handbookは数年に一度しか出版されないので、みなさんの肌感覚にズレがないかを確認するよい機会になると思います。関心のあるところからコツコツと読み始め、ぜひ、人材開発部内で議論していただければと思います。
ヒューマンパフォーマンスはパフォーマンス・コンサルティングを実践します。
人にかかわる施策、人材開発と事業戦略の連動性を高め、業績向上に貢献することがテーマです。研修効果で悩んだことがある方には有効なフレームワークです。人材開発のあり方や研修の見直しを検討されている人材開発担当の方におすすめです。
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鹿野 尚登 (しかの ひさと)
1998年にパフォーマンス・コンサルティングに出会い、25年以上になります。
パフォーマンス・コンサルティングは、日本企業の人事・人材開発のみなさまに必ずお役に立つと確信しています。
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